思いやりが基礎です。全てです。
これさえあれば人間としても、社会人としても、一人の男・女としても、とても立派で尊敬に値します。
究極は、その思いやりに気付くことです。
最近言いますよね、日本は物騒になったと。
まあ確かにそうかも知れません。
昔より遙かに、日本に外国人が増えました。
昔より遙かに、文明が発達し、武器が増えました。
昔より遙かに、科学が進歩しました。
テレビなどでも毎日のように物騒な事件が報道されます。
こんな世の中で、そう思うのも無理はありません。
ただ警察庁のデータでは、刑法犯認知件数は2002年をピークに減少してきているんですよね。
まあ2022年は増えたそうですが。
近年は情報も様々な媒体から受け取れるわけで、物騒な事件を目にする耳にすることが増えたのはこれが要因なだけですよね。
メディアがこぞってとある事件を取り上げることで、その印象が強くインプットされるのも勿論あるでしょう。
でも昔から物騒ではあったんですよね。
煽り運転然り、強盗然り。
それが現代では多くの媒体で、繰り返し報道されるという違いなんですよね。
でも私は、現代はスマホやPCで個人が情報を発信する時代になったことが、物騒になった(と思う)一番の要因であると思います。
これ共感頂けるかわからないんですが。
昔は地域のつながりが強くあったと思うんですよね。
近所で子供が悪いことをしたら、それを叱るのは近所の大人でした。
私の父はよく外でカエルをいじめていたそうですが、近くのカミナリ親父がよく叱ってきたそうです。
授業中居眠りしてたら先生にげんこつされて、廊下に立たされていたそうです。
ですが今は、
外で悪いことをしてて、叱ってくる人に逆ギレ。
先生がげんこつでもしたらすぐに体罰。
大人が、正義感の強い人が馬鹿を見る時代になりました。
あ、体罰はいけないと思いますよ。ただそれは行き過ぎな体罰(もはや暴力)はだめ、というだけです。
注意の意味でげんこつとか、そのレベルならありだと思っています。
先生だって、こいつは口で言っても分からないから、痛い目に遭わせてやろうなんて思ってませんよ。
大半は愛の説教ですよね。昭和の古き良き先生です。
それを何でも悪とする風潮が出てきました。
いつからでしょうね。
私はゆとり世代ですが、それよりももっと前からだと思います。
携帯電話が普及し、スマホが登場し、人々の生活は一変しました。
パソコンもまあその一員ですが、写真や動画も身近な存在となったスマホがメインと言えるでしょう。
分からない事は何でもグーグル先生が解決。写真や動画で手軽に何でも撮影。不特定多数とも、特定多数ともいくらでも繋がることが出来るSNS。
もはや現実の先生は不要、という考えが出てきてもおかしくないですよね。
叱ってくる人、おかしい人は撮影して、何でも”証拠”ですよね。
危ない人にだまされる人、特定の個人を攻撃することも可能なのがSNSですよね。
昭和の時代には必要だった存在が、令和の時代には不要に成り下がる。排除される。
これって個性を重んじて昭和の古い存在を排除した結果ではないですか?
過保護に守りすぎたのではないでしょうか。
そうやってぬくぬくと育った事で、叱られることなく育った事で、善悪も判断できず、こんな物騒な事件を起こしてしまうのではないでしょうか。
というより、悪を善に都合良く変えられてしまうといった方が正しいのかも知れません。
言い方に語弊がありすみません。勿論大多数の方は善人です。
個性を重んじるあまり、善と悪の両極端になってしまったと私は思います。
善も育ったが悪も育ったという感じです。
ここでようやく出てくるのが思いやりです。
スマホの登場が悪とは言いません。
現に私もよく使ってますし。
要は使い方を誤らないで欲しいのです。
ノーベルのダイナマイトの話は有名ですよね。
スマホも、差別や犯罪を助長するために生まれてきたのではありません。
悪事のために利用しようと思うのは、善悪の判断がつかず、悪を善とすることに抵抗がないからですよね。
自己中心的ですし、思いやりのかけらもありません。
近所のカミナリ親父が子供を叱るのは、思いやりからですよね。
先生がげんこつするのは、生徒に対しての思いやりですよね。
その思いやりに”気付く”心を養って欲しいなと思います。
次回は思いやる心の養い方についてです。
なんか回を重ねるごとに偉そうにすみません。
読んで頂き、ありがとうございました。